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アウェイクニング [喜怒哀楽寂快]

「レナードの朝」という映画がある。
ロバートデニーロとロビンウィリアムスを主演に嗜眠(シミン)性脳炎により半昏睡状態になったレナードと、それを支え、病気を研究する医師セイヤーの物語である。
この映画はたまに、そしていきなり深夜遅くに放送したりする。
なんなんだこの感じは。
実は北京にいたときも、夜中三時過ぎぐらいにソファーに座ってテレビのチャンネルを変えていたら(普段はまずしない)思いがけなくこの映画に出くわして見たということがある。
だいたい深夜の映画ってのはそうそう話題作やヒット作はやってない、というより作風がなんかしっぽりほっこリしたような淡々とした作品が多い、私はそんな感じに思ってるところがあって、むしろこの作品はこの時間帯に見るのがベストなのではないかとすら思わせる深夜映画っぷり。
よく映画は字幕スーパーで見るという人がいるが、私はその大方の理由である「本人が喋る雰囲気が吹き替えだと味わえない」ではなく「演技に字幕がついている画」という雰囲気を味わえるので字幕で見たりする。
わかりにくいですか、そうですか。
邦画を見るときってずっと字幕が付くことはなくて、字幕なんて普通は外国映画を見るためにあるので、それに慣れた日本人は字幕を見ただけで「洋画を見てる」というパブロフっぽいことになっていて、私はそこを逆に遊んでたりする。毛先みたいに。
ん?分かりにくいですか、更にですか。
そんでこの「レナードの朝」なんだけど、この映画は事実に基づくお話で、ほとんどの場面が病院の中の殺伐とした雰囲気なので字幕スーパーで見るのもいい感じの映画だといいたい。
私はこのDVDを持ってるんだけど、「あれ、ところで私なんでこの映画知ったんだっけなぁ?」と4秒くらい考えたところ、たしか昔、深夜にやっとったのをたまたま見たんじゃなかったっけ?と思うくらい深夜イメージ。

ちなみに「レナードの朝」は邦画名なんだけど、私は邦画名の方が好き。という要らぬ情報。


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あなたたちです!! [喜怒哀楽寂快]

ここ最近(と言ってもここ何年)「爆笑オンエアーバトル」が「エンタの神様」を抜いて芸人の格を落とす番組ナンバーワンの座を築いている。
笑いどころが何処かわからないネタが実は高得点だったりする。
まぁそれはありえなくも無いことだけれど一組も笑える組が無いまま終わったりするから驚きだ。
このメンツで予選の落ちの芸人はどんな水準で芸人やってるのか見てみたい。いや、むしろ見たくも無い。そこに輪をかけて天然キャラが大不発で嫌悪感さえ招く女子アナへの司会者交代。
一時の漫才ブームを起こすきっかけになった番組を生んだテレビ局だけに幕の引き方は潔くしてもらいたい。

あとspan!という芸人がキングコングにモロ似している件について。
まぁキンコンじたいがナインティナインに似ているという話もあるわけですが
まずボケのちっちゃい方が梶原に少しにている。だから岡村にも似ている。
もちろん笑いも身体を使った芸風。
それよりも私が似ていると思ったのはツッコミの方の人。
顔こそサイトの架空請求でもやっていそう風貌だが、服装やツッコミの間、あとつっこんだ時の声が若干裏返る感じがすごく似ている。
あと全然ウケてなかったのも似てた。


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イルマリがはしゃぎ過ぎる件について [喜怒哀楽寂快]

「お吸い物にコーラをぶち込んだ味のようだ」

VALON

VALON

  • アーティスト: 小林武史, Ilmari, Ilmari×Salyu
  • 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2004/04/21
  • メディア: CD


私はラップにはうるさい
それは私がラップが上手いからでも、ラップに関しての知識が豊富だからでもない、ただこだわりがあるからだ。
ちょっと昔のアイドルのセカンドアルバムあたりでよく見かける「今回はアップテンポあり、バラードあり、踊れる曲もあり、ラップにも挑戦しました」から始まり、ドラゴンアッシュのロック調、湘南乃風のレゲエ調、テクノ調もあればダンス調もあり、ラップと一言に言ってもその範囲は広く線引きは極めて困難といえる。
そのためただ単にラップ好きと言っても人それぞれかなり偏りがあるのは当然のことといえる。
私の好みとしてはアイドルはもちろん韓国人のラップ、ベニーK、リップスライム等はラップとさえ分類していない。では、それらの歌手が嫌いかと言うとそんなことは無くて、腐ってもラップということでどちらかと言うと好きだ。
今、ふと思ったけれど私はラップ好きといいながらジブラとキックザカンクルーしか正統ラッパーと認めていない気がしてきた。
では前者と後者では何が違うか、それは一言で言うと『韻』を踏み踏みしたか否か。
いや、むしろその踏み方である。
昔、ラジオでGAKU-MC氏が「詩を書くのはテンポをあわせなくてはいけなくて、韻も踏まなくてはいけない、その上その詩がちゃんと意味を持っていなくては意味がないので、大変」と言って確かに大変なのだということは伝わってきたが肝心の彼の作品が二枚目のアルバム以降「韻」に重きを置かなくなっているのは明らかで、申し訳程度に韻を擦って(踏んで)いる彼をみて、そのうち本当に「だよねー!」とかって歌いだすのじゃないかと思った。
そこでジブラである。
スチャダラパーと並ぶジャパニーズラップのパイオニアでありベテラン中のベテラン。
しかし彼が日本に伝来したものはヒップホップのファッションやスタイル、「YO!YO!」と言っとけばいい的空気だけではなく旋律を無視しても韻を踏むことによって心地よく感じるというラップの基礎であったりする。
GAKU-MC氏が大変だといった三点においてジブラは「おい、この人マジ天才なんじゃねぇーか?!」とさえ思わせる。
ラップを聴いて感動したり切なくなったりすることもあるでしょう。
ラップを聴いて韻の心地よさを感じることもあるでしょう。
ただ安定的にその二つを同時になせるラッパーはキックとジブラを除いてはほぼ皆無だといいたい。(もちろん私は専門家でないのでいたら普通に教えてほしい)
なのでその二つともをほとんど持ち合わせていないイルマリ(リップスライム)氏がリップスライムの一員でいれること、またそれだけでなく他人と合作したりすることに驚きを禁じえないわけです。
リップスライムの歌う詩に大したメッセージ性が無かったとしても(全曲ではない)、私はあのノリは聞いていて気持ちよかったりすることがあるのだが、詩を大切にしているであろうと思われる歌手と合作をしようとするのはその歌手のファンからすれば汚点でしかないと思う。
そういった意味で「 Steady&Co.」( ILMARI Kj SHIGEO )は似たもの同士が集まって作った(私にとっては)聞き所の極めて少ないアルバムであった。

※幸い上で紹介した「VALON」には「VALON-1」というsalyu単独で歌っているバージョンも発売されておりますので必聴。


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ムダムダムダムダムダmづあ [喜怒哀楽寂快]

恥ずかしながらお風呂に入るのが好きくない。。。きらい

やらなきゃいけないことを、こう、スケジュールをテトリスみたいに埋めていけたら、そんな風に時間がすぎれば気持ちいい。などとという考え方からするとお風呂の時間は避けては通れないムダじかん。

でも最近お風呂の前に外をひとっ走りしている。帰ってきたら上に述べたような御託は関係なくお風呂タイムです。

でもやっぱりアフロ、じゃなくてお風呂にただ入っていると飽きるのでよく音楽をかけてから入る。

今日も外から走って帰ってきて滴る汗のままパソコンの音楽を開いた

 

ってのが三時間くらい前の話で、そのあとごろごろしたりテレビ見たり、情熱大陸見ながらゴロゴロしたりして今パソコンに向かっているわけです。

おや?音楽ソフト開いてる。音がないのでボリュームを上げてみる。でも音が無い。

あ、そうだ、風呂の前にソフトだけ開いて再生押さずに風呂入ったからだぁー

こうなってくると私はいったい音楽が聞きたかったのか、無音でお風呂というイメージが怖かったのか、パソコンを開いた段階で満足しちまったのです。

結局そういう無駄な思い込みが一番ムダ


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大反響のサクラソングから見る邦楽界 [喜怒哀楽寂快]

前回ここで書いた「タイトルに「桜」を入れざるを得ない悲しい理由」が以外に反響を呼んでおりましたので、最近のオリコンスタイルで下のようなコラムがあったので無断で掲載します。(問題あったら消す)

ランキングに入ったのは殆どが21世紀の楽曲!!

河口恭吾の写真 ばら科の落葉高木。春、薄紅色・白などの美しい花が咲く。花は五弁だが、八重咲きもあり、ヤマザクラ・サトザクラ・ソメイヨシノ・シダレザクラ等、種類が多い。わが国の代表的な花として広く親しまれ、平安時代以後、単に“花”と言ってこれを指すことが多い。後世、散りぎわのいさぎよさから、武士道の象徴ともされた。材は器具などに使い、花の塩づけを桜湯にする――。
 どうだ、『岩波国語辞典』の<桜>に関する記述で、なぜ“桜ソング”が日本人に愛されるのか一目瞭然ではないか! と、このまま終わると殺されそうなので続ける。

中島美嘉の写真 今回の2つのランキングを見て興味深いのは、そのほとんどが21世紀(笑)の楽曲であるということ。特にセールス・ランキングがわかりやすいのだが、とにかくCDが100万枚単位で馬鹿みたいに売れた90年代の“音楽バブル”期には、作り手サイドにも聴き手サイドにも、“桜ソング”は全く相手にされてなかったわけだ。それだけ桜を愛でたり、感傷にひたったりする心の余裕などないくらいに日本国民全員が、物欲バカと化してたのかもしれない。反省だ反省。

桜ソングがアーティストの感性を育てる!?
松田聖子の写真

 森山直太朗以降、“桜ソング”が急増してるのはまあ、“資本主義ならではのご愛嬌”ということで微笑ましいが、それだけに“桜”に対する解釈がどんどん拡がってて、アーティストの感性の向上に大きく貢献している気がする。
 同じ満開の桜を見ても、ポジになる人もいればネガになる人もいる。情緒的になるかと思えば、やたら元気ハツラツになったりもする。どの曲がどれに当てはまるかは、説明しなくてもわかるっしょ?
 音楽評論家的に言わせてもらえば、情緒性を徹底的にスマートに表現したケツメイシ、ドラマの再放送に想い出をシンクロさせて“季節外れ”をあえて演出した宇多田ヒカル、そして圧倒的な写実力で“少女の感傷”を優秀なガールポップに仕上げた川本真琴、が秀逸だ。また、かつてアイドル歌謡の定番商品だった“カレンダー・ソング”を、かわいこぶりっこ(←完璧に死語)のまま国民的愛唱歌にまでのし上げた松田聖子は、やっぱ“人間国宝”級だと改めて思うし。
 結局、“桜ソング”が愛聴されてる間は、“人々の心が荒んでないぞ”ってことなのだろう。きっと。
 ちなみに私の愛犬の名前は、サクラです。

(文:市川哲史)

引用ココまで

つまりこの人が考えるサクラソングのヒットの理由は『、『岩波国語辞典』の<桜>に関する記述で、なぜ“桜ソング”が日本人に愛されるのか一目瞭然ではないか!』。そして九十年代にヒットが少なかった理由として『桜を愛でたり、感傷にひたったりする心の余裕などないくらいに日本国民全員が、物欲バカと化してたのかもしれない』と。そして「資本主義ならではのご愛嬌」ということで森山直太郎以降サクラソングが広がった。と

最近の若者の表現力の低下から来る歌の中に散りばめられた季語の減少が今のサクラ乱用に繋がっていると前回書いたが、実際サクラの乱用は2000年以降に顕著に現れているそうだ。

氏は「桜ソング”が愛聴されてる間は、“人々の心が荒んでないぞ”ってことなのだろう」と結論付けているが、私は歌にサクラが入っているだけで少しウンザリぎみになってしまっている自分と今後の邦楽界に不安を禁じえない。

 

※前回の記事と比較しながら皆さんのご意見も聞きたいところ


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タイトルに「桜」を入れざるを得ない悲しい理由      3026 [喜怒哀楽寂快]

二年間のほとんどを海外で生活していて、いきなり日本に帰ってくると、そうでない人より鮮明に二年前との違いを感じることができるときがある。

まぁそー言ったものはいくつもあるのだが、やはり若者の変化というのは一番それが如実に現れる。
そこで個人的にちょっと嫌だな、と思ったことがある。

歌のタイトルに桜を入れたり、歌詞で桜を連呼している歌が多すぎる。

もちろん歌というのはその時期に適したテーマを歌うことでヒットを狙うものなのだが、数年前に春だからとここまで馬鹿みたいにさくらさくら言ってたかと言うと、そういういイメージは無い。
では、なぜここまで桜を連呼するようになったのか。

冬のあの殺伐とした風景、イメージ、そしてその時をじっと待って綺麗な色の花をつける桜。おそらくそれを見て春の到来を心で感じ、えも言われぬ気持ちになるのは日本人なら当然だろう。
しかし春を感じさせるものは桜だけだろうか。卒業式だけだろうか?

んなこたぁーない。(タモさん風)

これは悲しいことですが、今の人は(特に若者)は上に挙げたような春の持つ独特の雰囲気を「桜」という言葉を使うことでしか表現できなくなっているのではないかと思う。
歌というのはその季節ごとに季語を織り交ぜることによって聞く者に情緒や場面を想像させるものなのだが、歌う側はもちろん、聞く側にもそれらの表現力の低下を感じ得ない。

そんなことを知ってか知らずか今年の桜は雨に見せ場を奪われている。


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ロマンティックあげ~るよぉ♪ [喜怒哀楽寂快]

いわばもう師走である。

こないだ語学関係の参考書を買いに行った店で「ドラゴンボール」全巻を見つけてしまった。

それを見つけた私は書店の一番おくの方に固めて置かれているそれらの漫画の前でしばし動きを止めて考えていた。

私にはこの行動がどこかもどかしくそれでいてなぜか懐かしいように感じた。

そうだ、月のお小遣いが千円にも満たなかった小学生のころの私は物を買うということに対して今では想像できないくらい慎重に対処していた、その時の感じだ。

いや、ぶっちゃけ生活に無くてはならないわけではないし、でもやっぱそりゃ欲しいじゃないですか「ドラゴンボール」なわけですから。

『あー、なんだこれ。いい年した大人がドラゴンボール全集の前でピクリとも動かずにじっと棚を見つめてる。しかもここ語学参考書のコーナーだし、傍から見たらぜってー変な人』そんな思いに駆られながらもここは慎重に。

そして決めました。私、買いました。八巻から十二巻。

なんで八巻から十二巻やねんっていうのがあると思いますが、ちょくちょく揃えていくフェチなんです私。

そんなカミングアウトが飛び出たり飛び出なかったりしているが、それはどうでもいい。

子供のころは漫画よりもアニメで親しんできたドラゴンボールだったので漫画で読むのは初めてに近かった。

しかしこうして再び見てみると当時は感じなかったストーリー以外の些細な部分が気になってくる。

表紙とかも今見たら毎巻、絵のタッチとかも微妙に違っていて普通に可愛い。だってこれ20年前の作品ですからねぇ、あの当時この描写技術と微妙な可愛い感も踏まえつつのセンス。鳥山明がいろんな分野に置いて知識を深めた上で描かれていたのだと、今ならそう思う。

たとえば髪型とかもその時代を映し出したりしていて、この漫画は孫悟空が子供の状態から始まって大人になるまでを順々に描いているのだけど、キャラクターのほとんどがその時代時代に合わせて髪型を変えていっている、しかもすごく自然に。なかでもヤムチャとブルマとかはその代表例で二人とも初めて登場した時はまだ青年と女の子って感じだったのだけど、服装も髪型も年齢に合わせて徐々に変化を帯びていっている。これは何気にすごいことだと思うのね私。ストーリーの流れにそって年齢を加えて描いていく漫画は他にもあると思うけど、白髪入れたり、髭つけたり、皺入れたり、でも肌はピンピンっていう。技術面で言ったらあからさまに世界で二位に32.5ゲーム差ぐらいつけていると言える日本の漫画家でも「老い」を表現するのって難しいんだなぁってのが分かる。その点で言えばブルマとかヤムチャはすごい。ブルマなんか最初は成熟しきってない感があったのにそれがだんだん老けてって最後スッげーおばさんぽかったもん。この「ぽかった」っていうニュアンスが超難しいのだと思う。

それとこの漫画を今再び読んで一番強く思うことは、登場キャラクターの種類。

まず主人公が実は地球人じゃなかったし、当初は主要登場キャラクターがほぼ中華っぽくてそれは服装や名前からも一撃で分かるしウーロンなんか人民服着てるかなぁ豚なのに。
そこからどんどん人間以外の動物が人間と混じって登場してきたりレッドリボン軍なんて総長が赤毛で、秘書が黒人、んで一番の部下であるブルー将軍とか明らかに白人。この時点ですでにもう中華だけにこだわることはないという作者の思いが伝わる。が、そのレッドリボン軍が雇った殺し屋タオパイパイがあからさまなチャイニーズスタイル。さらに言えばこの軍隊の雑魚キャラは熊やら虎やらワニやら、それでいて普通の人間も同じ位で働いてんの。
確かにこの漫画の主人公は孫悟空なのだが、「西遊記」では無くて「ドラゴンボール」。時代も分かりにくいし、場所も全部偽名。
私が思うに鳥山明氏は漫画を通して「一つの地球」を言いたかったんじゃないかと思う。
国も民族も人種も貧富も男も女も、さらには動物や宇宙人までもが普通に登場してくる世界、そのなかで「孫悟空」という一切の影の部分を持たない、いわば人間として有り得ることの無い純粋な心を持った少年を通して「一つの地球」伝えたかったのだと思う。
そう思うとキャラクターの名前が一区切りごとにある関連性のあるもので決められているのも、あえて特定の地域性を出さないために物や食べ物の名前を使ったのではなかと思えてくる。
しかもそういいきるとそう思えてくるから不思議。
深い

あと小物も見逃せません。
タオパイパイに一撃殺されそうなチョイ役とか頭しか映ってないパイロットとかの服や帽子が微妙にどうして可愛い感じだったり。
普通のおじさんがかぶってる帽子に何気なく「PAFPAF」とか描いてあってリアルであったら即買いしそうな勢いです。

それにしてもキャラクターが年齢を重ねていく中で昭和の代表みたいな髪型をしている「ランチさん」の髪型が一切変わらないのは絶対作者が好きなタイプだからである。
むしろ作者はランチさんをもっとフューチャリングしたかったに違いない。
こう言い切ってしまうとそう思えてくるから不思議だ
深っけぇ

 ちなみに、十巻の表紙でブルマさんの乳首さん拝めます。

童貞は書店に急げ。


結論から言うと意見の投げっぱなしヨクナイ。  1974 [喜怒哀楽寂快]

今回は先日書いた記事「no music, no lifeって言ってますけど、聾唖者はどうなるんすかねぇ?」 に寄せられたコメントに答えていくよ。


よくないと思います。意見の投げっぱなしは。結論まで導いていける思考がなく、最終的に言いっぱなしで逃げて妥協点や解決点が見つけられないのなら人に意見するべきではないと思います。揚げ足取りは誰でも出来ると思います。問題が起きたとき受け止める力の無い人が人に意見するべきではないと思うのです。
by NO NAME


ノーネーム様>
いらっしゃいませ。真剣にコメントしてくださったんで真剣にこたえさせてもらいます。
結論から言うと意見の投げっぱなしヨクナイ。とマジ私も思うわけです。しかも他人のブログで。
でもですねぇ今回の話題を見てもらったら分かると思うんですけど答えなんてないんじゃないんですかねぇ?「no music, no life」っていうちょっと有名なキャッチフレーズが何の悪気もなく造られて存在して、巷では結構共感得てて、でも聾唖の友達には「このフレーズいいよね!」って得意げに言ったりはしたくないっていうのも事実心の中に存在して。矛盾してるけどそれだけのこと。
「お前なりの結論をだせよ」と言われるかもしれませんが、それは結局一個人の意見であってそれはなんの答えでもなくて、「そうだよなぁ」って共感してくれる人もいるかもしれないし、「いや、それは違うでしょうYO」と否定する人もいて当然だと思うんですYO。でもこの記事見てな~んにも感じない人ってほとんどいないんじゃないかなぁ、なんて思うわけですよ。
それでいいんじゃないですか?
あなたも初めて意識したか前から考えてたか知れませんが何かを感じて書き込んでくれたんじゃないかなぁ?
あと、これは自分が思うだけなんだけど「意見の投げっぱなしよくない。結論まで導いていける思考がなくて、最終的に言いっぱなしで逃げて妥協点や解決点が見つけられないのなら人に意見するべきではない。揚げ足とりは誰にでもできるんだし問題が起きたとき(何の問題が起きたのか知れませんが)受け止める力が無い人は他人に意見するべきじゃないよね」っていう一つの決まりに基づいて行動したり意見したりするのは場合によってはすっげーもったいないことだと思ってたりします。議会じゃあるまいし。
コカ・コーラも「No Reason」って言ってることだし。
現にここで自分の結論だしたバージョンと今回のように無かったバージョンで何の差があったか?まぁ書いたほうが良かったのかなぁとコレを書きながら感じてきたわけなんですが、なにぶんわたくし結論まで導いていける思考が無いのだからしかたない、むしろだからこそ皆さんに問いかけてるんだからそこはそっと察してほしかったりする(涙目)。
あとねぇ、どーしても言いたいことが。
「揚げ足取りなら誰でもできる」って言ってるけどねぇ、そんな簡単に言わないでくれ。
問題は「どの揚げ足をとるか、その揚げ足をどういう角度からとるか」なんだからYO。

そんな感じです。
ぜんぜん怒ってないのでまた見に来てね。
(あと少なくとも問題が起きた時に受け止める力の無い人に対して「いろいろ考える機会を与えていただき感謝しています」、「わたしも深く考えさせられました。ありがとうございます。 」等のコメントを残していただいたブロガーに謝ってから来てくださいねhttp://blog.so-net.ne.jp/minnnadaisuki/2005-06-09)

 


文中で語尾にいきなり「YO」などのラッパー系のスメルを醸し出している箇所がありますが、「ふざけんな。まじめに答えろ」「俺もブログで使ったろ」等どう思われても結構です。
それがブログですYO。


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ローマ字で罵られても返事する 1805 [喜怒哀楽寂快]

ご覧の通り最近ではめっきり誰もコメントを残してくれなくなったので分かりにくいのだが、以前から私は記事でオモロイことや辛口コメントや基地外っぷりを披露しておきながら、コメントを残してくれた観覧者への返答はレーディースアンドジェントルメンの精神では駄目だという武士道精神を全く汲まないが「それ言えてる」的路線でブログ界に挑戦している。
もしかしたらコメント残してくれた人は「コメント欄でもこいつなんかオモシレーこと書くかもしれん」と期待してるかもしれないし、「そうですよねぇ~~~~~」的な返答だったら内容に意味が無さ過ぎる気もするので、コメント欄も含めて一つの自分を表現してやろうかしらと意気込んでおったのです。
そんなわけで自分の過去記事を見てたりすることがあるんすけど、「私コメントでなんて書いたっけぇ?」とチェックしてたりするクチだったりするわけなんです。

んで、ここではないんですけど以前自分が書いたコメントで最近不覚にも吹いてしまったのがあったんで。(以下違うブログで書いた記事を引用)




ってか、パソコンが明るさを取り戻した話はどうでもいい。(読者的に)
人は図星を突かれるとカチンっとくるということなのだ。
以前友人と三、四人で撮った写真を相方に見せたら言われた
「ずみっちなんかアレみたい、、、あの、、丸くてあれあれ、日本の。なんだっけ?」
『おにぎり?』
「そうっ!!それ!」

五分後
「いや、かわいいって」

そんなフォローは要らない

(以下コメント欄)
【友人A】『おにぎり』に例えちゃうなんて可愛いじゃん!笑
      今度紹介してねー☆

【私】  おにぎりって言われて怒るような奴は所詮おにぎりなんすよ。




「なにがおもろいねん!」とギリギリチョップでど突かれるかもしれないが、自分でも分かってる。
おもろくない。
でもなんか深っけぇーなぁーと思って。

とにかく私が言いたいことはコメント欄から生まれる深っけーフレーズとかもあるってこと。
まぁコメントゼロを更新中の私がソネットブログの中心でこんなこと叫んでもビックリするくらい説得力ゼロなわけですが、私ローマ字で罵られても返事する深っけぇーフトコロだったりするんで一つ。(実話)   


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ノストラダムスブログをRSSから外してみた [喜怒哀楽寂快]

ソネットブログには「RSS」(読んでいるブログ)という設定欄がある。

まぁ、他人の読んでいるブログなどどうでもいいことチャン・ツィイーの如しなのだが、私のRSSには当初からずっと「ノストラダムスブログが登録されていた。それを昨日をもって解除しましたよという話なのだわ、早い話が。

ソネットブログには他社のブログにはない「nice!」という機能があって、

「昨日仕事でドジやっちゃって課長に大目玉くらっちゃいました。アー仕事やめたいですホント。」
 [nice!]

という新しい斬新なナイスの意味を作り出していて意味の無いことチャン・ツィイーの如しなわけですが、ことRSSについては、他人のここに自分のブログが登録されていようものならそれはそれは光栄かつ大興奮間違いないわけです。
だって、そこには「また読みに来るで」という意味が含まれており新しい投稿があったらいち早く知りたい、知りたいの。という意味まで含まれていたりするからたまらない。
リンクしていってたらたまたま見つかった超面白いブログ。本当に素人が書いているのだろうか?このブログに出会えたことをビルゲイツに感謝したいと思いつつRSSに登録するわけです。「お気に入り」にではなく。

では何故今回私が「ノストラダムスブログ」をRSSから外すにいたったのか、それはもう言うまでもございません、先を競って見に行くほどの価値がなくなったからでございます。

私はどこかダムスさんを尊敬しているところすらあったんです。
毎回、読者からのさまざまな質問を予言という斬新なスタイルで面白おかしく、時に厳しく、それでいて当たり障りの無いようにダムっさん独自の観点で答えていく姿に。
もちろん、ソネットブログのトップページに他の有名人ブログと一緒にならんでいるので観覧者も相当多いとは思うが、彼は自分の姿を一切明かしてないんです。それでも皆ダムッさんのブログを見にやってきてました。
それが最近なにを思ったか全く予言することをやめてしまい、なんか自力でオモロイ記事を書こうとしてるんです。
文才があるとかないとか私が言える立場にないので分かりませんが、とにかく予言をやめてしまったそれはお世辞にも面白くなくまさに素人の書く自己満ブログと変らないわけです。
言うなれば予言をやめてしまったダムッさんはワイヤーアクションを全く使わなくなったチャン・ツィイーと同じと言わざるを得ません。
別に自己満ブログが駄目だと言っている訳ではなく、むしろブログ自体自己満足の塊みたいな物だと私も思っている、それでいいと思う。
ココを見てもらえば分かるように自己満でもいいんです。それを好んで見に来る方も多数居られるのです。それが有名人としての役割だとも思っています。
しかしダムっさんにいたっては得体の知れないオジサンだし、もしかしたらオバサンかもしれない。
だが「そんなことは問題じゃない!男だろうが女だろうがどうだっていい!僕たちはただイカしたブログが読みたいんだ!」と言った熱いブロガーに支えられていたとさえ言える「ノストラダムスブログ」、
得たいの知れない人物が少なかりとも報酬をもらって書いているブログが自己満というのはいかがなものだろうか?
いや駄目だろう。

身体の調子が思わしくないのでしょうがないのかもしれないが、そこは言い訳にしてもらいたくない。やっぱり好きだから。

以下の理由を踏まえて「ノストラダムスブログ」をRSSから外しました。


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